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東京地方裁判所 平成3年(ワ)10521号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

久連山剛正

梅澤幸二郎

大島正寿

山下幸夫

被告

右代表者法務大臣

後藤田正晴

右指定代理人

池本壽美子

外七名

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一被告は、原告に対し、一〇〇〇万円及びこれに対する平成元年八月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二被告は、原告に対し、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞及び日本経済新聞の各紙上に、別紙(一)記載の内容の謝罪広告を同記載の条件で各一回掲載せよ。

三被告は、原告に対し、官報紙上に別紙(二)記載の内容のおわび文を一回掲載せよ。

四被告は、原告に対し、本判決後直近に発行される警察白書に別紙(三)記載の内容のおわび文を一回掲載せよ。

五被告は、別紙(四)記載の各図書館に別紙(五)記載の文書及び別紙(六)記載の版下原稿により作成した付箋を各一回送付せよ。

第二事案の概要

一本件は、被告が発行した「平成元年版警察白書」(以下「本件白書」という。)に掲載された記事により名誉を毀損されたと主張して、原告が、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき損害賠償、謝罪広告等を求めている事案である。

二当事者間に争いのない事実

1  原告は、神奈川県横須賀市〈番地略〉で「カフェ・バー・スクエア・おんなのことおとこのこの夢見波」を経営していた者であるが、昭和六三年五月二五日有印私文書偽造、同行使の被疑事実で逮捕された。右逮捕後の原告に関する捜査の経過は次のとおりである。

同月二七日

右事実に公正証書原本不実記載、同行使の被疑事実を付加して検察官送致

勾留請求(同日勾留状発付)

同年六月三日 勾留延長

同月一五日

公正証書原本不実記載、同行使の事実につき、罰金五万円の略式命令

有印私文書偽造、同行使の事実につき、処分保留のまま釈放

同月三〇日 右略式命令確定

同年七月二一日 有印私文書偽造、同行使の事実につき、不起訴(起訴猶予)処分

2  被告は、本件白書二八九ページにおいて「第7章 公安の維持」の項目の下、「(3)総力を挙げたソウルオリンピック安全対策」の中の一項目として、「ウ北朝鮮工作員の指示の下に活動していた日本人女性の逮捕(横須賀事件)」と題する別紙一記載の文章(以下「本件文章」という。)を掲載した。本件文章は、本件白書の頒布により不特定多数の者の目に触れる状態になった。

3  外務大臣は、原告が「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当の理由がある者」に当たる旨判断し、昭和六三年七月二九日旅券の返納を命じた。

三原告の主張

1  本件文章は、「日本人女性A(32)」と原告の氏名を匿名にしているものの原告の逮捕日時、逮捕容疑及び年齢を記載するとともに、「横須賀事件」として逮捕場所を特定し、さらに旅券返納命令を受けた事実も記載している。

これに加え、本件白書発行前に、新聞、週刊誌等において、原告が逮捕された事実、原告が旅券返納命令を受けた事実及び原告が朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」という。)の工作員と接触した旨の事実が原告の実名や年齢等とともに広く報道されていたことを考え合わせると、一般の読者において本件文章中の「A」が原告であることを容易に特定することができる。

2  本件文章は、原告がヨーロッパにおいて北朝鮮工作員と接触し、その指示の下に我が国や東南アジア、ヨーロッパにおいて調査活動に従事し、報酬や資金を受け取っていたとの印象を読者に与えるものであり、特に「横須賀事件」との表題は、原告が特別な犯罪行為に関与していたとの印象を与えるものである。本件文章は、原告に精神的に回復困難な打撃を与えるとともに、原告の社会的評価を著しく低下させ、原告の名誉を毀損するものである。

3  よって、原告は、被告に対し、前記請求のとおり、損害賠償(内訳は左記のとおり)の支払、謝罪広告の掲載及び原告の名誉権侵害を予防するため図書館への付箋の送付を求める。

(損害の内訳)

填補的慰謝料 五〇〇万円

制裁的慰謝料 四〇〇万円

弁護士費用 一〇〇万円

4(被告の主張に対する反論)

名誉毀損的表現につき真実であるか又は真実であると信じるにつき相当な理由があるときは免責を認めるという法理(いわゆる真実性・相当性の理論)は、個人の名誉権と憲法上保障される表現の自由との対立調整を図る必要があることを根拠として認められているものである。したがって、表現の自由を憲法上主張することが許されない国家機関ないし公務員の表現行為については、個人の名誉権を最大限尊重すべきであり、真実であることや真実であると信じるにつき相当な理由があることを抗弁として主張することは許されないものと解すべきである。

四被告の主張

1  本件文章は、原告の氏名を匿名とし、その記載内容についても婉曲な表現にとどめ、ことさら読者の記憶を喚起させるような叙述方法は採っていない。

さらに、原告が指摘する新聞、週刊誌による報道は本件白書発行の一年以上も前の昭和六三年六月ころのことである。これらの事情によれば、本件文章に記載された「A」なる人物が原告であることを読者が容易に特定し得るとは言い難い。

2  原告については、本件白書発行の一年以上も前に、原告が北朝鮮の工作員と接触し、その指示を受けて調査活動を行っていた旨の詳細な内容の実名での報道が行われていた。原告の社会的名誉は本件白書発行の時点で既に著しく毀損されており、本件白書の発行という行為により原告の名誉が毀損されたとはいえず、少なくとも右行為と名誉毀損との間には相当因果関係はない。

3(一)  警察白書は、警察活動について広く国民一般に対しその状況を明らかにし、国民の知る権利に奉仕するとともに、警察活動に対する国民の理解と協力を得るために発行されているものである。したがって、本件白書に記載された本件文章の内容は、公共の利害に関するものであり、その執筆は公益を図る目的に出たものである。

(二)  本件文章の内容はすべて真実である。また、本件文章は、原告に係る犯罪捜査の結果得られた証拠及び信頼性の高い外国の治安機関からの情報に基づいて執筆されたものであり、右情報の信憑性を疑わせるような特段の事情もなかったことから、被告には本件文章の内容が真実であると信じるについて相当な理由があったというべきである。

五争点

1  本件文章中の「日本人女性A」が原告を指すことを一般の読者は認識できたか。

2  本件文章が記載された本件白書の発行により、原告の名誉は毀損されたか。

3  本件文章の内容は公共の利害に関するものであり、かつその執筆は公益を図る目的に出たものであるか。

4  本件文章の内容は真実か。仮に真実でないとして、被告に真実であると信じるについての相当な理由が認められるか。

第三争点に対する判断

一争点1(原告の特定可能性)について

1(一)  本件文章には、「北朝鮮工作員の指示の下に活動していた日本人女性の逮捕(横須賀事件)」とのタイトルに引き続き、「63年5月25日、神奈川県警察は、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員と接触し、その指示を受けて活動していた日本人女性A(32)を、有印私文書偽造、同行使で逮捕した。」旨の記載がある。さらに、本件文章の末尾には、なお書きとして、「外務省は、Aを含む6人に対し、『著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者』と認定し、旅券返納命令を下した。」旨の記載がある。

(二)  証拠(〈書証番号略〉)によれば、昭和六三年六月、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞及び東京新聞の各紙並びに雑誌「週間新潮」は、「北朝鮮工作員と接触」「スナック経営女性を逮捕」等の見出しを付し、神奈川県横須賀市在住の原告が神奈川県警察に逮捕されたこと、原告がヨーロッパで北朝鮮工作員とみられる人物と接触していたこと、原告が「よど号」ハイジャック事件の犯人と接触していた疑いがあることなどを、原告の実名及び年齢入りで報道したこと(以下「本件マスコミ報道」という。)が認められる。

2  なるほど、本件文章は、「日本人女性A」との呼称を用いており、それなりに原告の名誉に対する配慮をしたものということができる。しかしながら、本件文章の見出しに「横須賀事件」とのタイトルが付いていること、逮捕日時、逮捕容疑及び年齢が記載されていること、旅券返納命令が発せられた事実が記載されていることからすれば、本件文章を読む一般の読者としては、逮捕当時の原告に関する一連の報道についての記憶を喚起して、本件文章にいう「A」なる人物が原告を指すことを特定することは可能であると認められる。

3  被告は、本件マスコミ報道は本件白書の発行の一年以上前のことであり、本件文章の婉曲な叙述方法からして、「A」が原告を指すことは特定できない旨主張する。しかし、前掲各証拠によれば、本件マスコミ報道はかなり詳細なものであり、読者をして、原告が北朝鮮工作員の指示の下情報収集活動を行い、それにより我が国の利益が害されるおそれがあった旨の印象を与えかねない内容のものであったことが認められ、本件マスコミ報道が読者に強い印象を与えたであろうことは想像に難くない。そうだとすれば、本件文章に本件マスコミ報道を併せることによって、「A」が原告を指すことは比較的容易に特定可能であると認められる。被告の右主張は採用できない。

二争点2(名誉毀損の成否)について

1 名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価をいう。前示一1(二)認定のように、原告に関し本件マスコミ報道が行われ、これにより原告の社会的評価がある程度低下したことは認められるが、原告は、右事情の下でもなお、それ相応の社会的評価を有していたというべきである。

そして、証拠(原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、本件マスコミ報道によっていったんは低下した原告の社会的評価は、時の経過を経て徐々に回復しつつあったが、本件マスコミ報道から約一年二か月後の本件白書の発行により再び低下したことが認められる。

2  右の事実によれば、本件白書の発行という被告の行為によって、原告の社会的評価は低下したものと認められ、本件白書の発行と原告の名誉毀損の結果との間には相当因果関係がある。

三争点3(本件文章の内容の公共性、公益性)について

1 本件文章は、日本人女性Aを有印私文書偽造、同行使の被疑事実で逮捕したこと、Aが北朝鮮工作員の指示の下に活動していたこと、Aと同様にヨーロッパにおいて北朝鮮工作員と接触していた日本人女性五名が判明し、Aを含む六名につき旅券返納命令が発せられたことを内容とするものである。

右の事実は、犯罪事実並びに犯罪の背景及び情状に関する事実であるから、公共の利害に係るものといえる。

2 証拠(〈書証番号略〉、証人瀧澤裕昭)によれば、警察白書は、警察活動について広く国民一般にその状況を明らかにし、国民の知る権利に奉仕するとともに、警察活動に対する国民の理解と協力を得るために発行されていることが認められる。

このことからすれば、本件文章を含む本件白書の執筆は、公益を図る目的に出たものというべきである。

3 なお、右認定のように、警察白書の発行が国民の知る権利に奉仕する側面を持つことからすれば、本件のように私人の名誉との間で法益の衝突が生じることは少なくないものと思われる。この場合、国民の知る権利(別の言い方をすれば、国家機関の広報活動)と他の法益との調整原理として、いわゆる真実性、相当性の理論が適用されると解すべきである。

原告は、右理論は国家機関ないし公務員の広報活動には適用されない旨主張するが、独自の見解であって、採用することができない。

四争点4(本件文章の内容の真実性、相当性)について

1  証拠(〈書証番号略〉、証人瀧澤裕昭、原告本人)によれば、次の事実を認めることができ、〈書証番号略〉及び原告本人の供述中以下の認定に反する部分は採用することができない。

(一) 原告は、昭和三〇年一一月六日兵庫県尼崎市に生まれ、同四九年三月高校を卒業後、いったん株式会社資生堂に就職したがしばらくしてやめ、同五一年四月ころ南海保育専門学校に入学した。

(二) 原告は昭和五二年二月、大阪空港からイタリアに向けて出国し、その後フランスに行き、ウエイトレス、皿洗い、ベビーシッターなどをして働く一方、スペイン、イギリス、オランダ、デンマークなどヨーロッパ各地を旅行して回っていた。

(三) 昭和五六年六月ころ、原告は、観光のため訪れたデンマークのコペンハーゲンで劉と名乗る男(以下「劉」という。)に声を掛けられ、知り合うようになった。劉は、原告に対し、「私は劉と言います。中国物産品の輸出をして大変もうかっています。本社は台湾にあり、コペンハーゲンに出張所があるので、仕事でこちらに来ています。」と自己紹介をした。原告は、劉に対し、「佐藤恵子」と偽名を名乗り、当時住んでいたフランスの連絡先を教えた。

(四) 昭和五六年七月ころ、原告は、劉からの連絡を受けてコペンハーゲンに行き、喫茶店で劉に会った。原告は、劉に対し、飲食店を経営して金をため、その金で恵まれない子供たちのために福祉施設を作りたいなどと将来の希望を話した。原告は、劉の落ち着いた物腰や紳士的な身なりにひかれ、そのころ、劉に誘われるままホテルで同人と肉体関係を持った。

(五) 昭和五六年八月ころ、原告は、コペンハーゲンで劉に会った際、同人から仕事の手伝いとして電話の取次ぎ、市場における商品の売れ行き調査等を依頼された。原告がこの申出を承諾したところ、劉は、手始めにイギリスやフランスのホテルのパンフレットを入手したり、セーターや下着などの衣類の購入することを依頼し、その費用としてアメリカドルで一〇万円相当を交付した。原告は、同年九月か一〇月ころ劉からの連絡を受けてコペンハーゲンに行き、依頼された右商品等を劉に渡し、謝礼としてアメリカドルで一〇万円相当を受け取った。

(六) 原告は、右謝礼受領の際、劉からシンガポールに行って同市内の写真を撮ること、有名なホテルのパンフレットを入手することを依頼された。劉は、原告に、撮影場所を示した地図、カメラ及び費用としてアメリカドルで五〇万円相当を渡した。

原告は、いったんフランスに戻ってからすぐにシンガポールに行き、劉が指示した一〇か所くらいの場所につき三六枚撮りフィルムで一〇本程度の写真を撮影した。また、二〇軒くらいのホテルのパンフレットを入手した。

昭和五六年一〇月か一一月ころ、原告はコペンハーゲンで劉と会い、撮影した写真等を渡し、謝礼として日本円で五〇万円を受け取った。

(七) 昭和五七年二月ころ、原告は、劉と一緒にコペンハーゲンから東ベルリン(当時)経由でモスクワに旅行した。原告は、その後二回劉と共にコペンハーゲンからベオグラードに旅行したこともあった。

(八) 原告は、昭和五九年七月日本に帰国したが、それに先立つ一週間から一〇日くらい前の同月初めころコペンハーゲンで劉に会った。その際、劉は、原告に対し、帰国しても劉の仕事を手伝うよう申し向け、具体的には、ポラロイドカメラ、下着等の日用品、東京、大阪、新潟、富山等の地図及び防衛白書、警察白書等の書籍の購入、日比谷公園等数か所の写真撮影並びにホテルのパンフレット、ガイドブックの入手を依頼した。

劉は、右の依頼の際、原告に対し、「仕事に関するメモは用が済んだら必ず細かくやぶいて捨てるか、燃やすかしなさい」と注意をしたほか、「写真を撮ったりしていて怪しまれたりした場合、自然に装うようにしなさい。怪しまれないようにするには写真マニアのように装えばいいでしょう。誰かに監視されていないか常に注意しなさい。本を買うときは何回かに分けて買いなさい。そして、これら仕事のことは絶対に他人に言ってはいけません。」などと述べた。そして、「この仕事をするのにいろいろお金もかかるでしょう」という意味のことを言って、現金一万アメリカドルを原告に渡した。劉は、同時に、渡した金を日本円に両替するときは他人の名前を使うように指示した。

(九) 原告は、帰国後、前記依頼を実行し、昭和五九年一二月中旬か下旬ころコペンハーゲンに行き、劉と会って、購入した物品、撮影した写真、入手したホテルのパンフレット等を同人に渡した。その際、劉は、原告に対し、ライターや万年筆などの装飾品の追加購入並びに新宿、渋谷及び銀座の写真撮影を依頼した。

原告は、帰国後、右依頼を実行し、昭和六〇年四月コペンハーゲンに行き、劉と会って、購入した物品及び撮影した写真を同人に渡した。その際、劉は、原告に対し、日本に戻ったらすぐに預金口座を開設してキャッシュカードを作るように指示し、具体的な暗証番号を幾つか教えた。原告は、帰国後、劉の指示に基づいて銀行や証券会社等に預貯金の口座を開設した。

(一〇) 昭和六〇年九月中旬か下旬ころ、劉は、原告に電話を掛け、「頼みたいことがあるから来てくれないか」と述べた。原告は、同年一一月下旬ころフランスに向け出国し、同年一二月中旬ころコペンハーゲンで劉に会った。劉は、原告に対し、「知り合いの人の出身地、性格、趣味などをできるだけ多く調べてきてくれませんか。その調べる人はお金に困っている人とか、仕事を辞めたいと思っている人とか、海外に行きたいと思っている人とかがいい。恵子さん(原告)も将来飲食店を出すには今からそのように知り合った人達の出身地や性格や趣味などを調べておいた方がいいですよ。すぐにその人達がお客さんになるという訳でもないでしょうけど、やってくれれば一万ドルを支払いますよ。」と言った。

原告が右依頼を承諾したので、昭和六一年一月下旬ころコペンハーゲンで、劉は原告に対し、約束した謝礼の一万アメリカドルを渡した。原告は、日本で両替するのが面倒であったため、劉に頼んでその場で日本円に両替してもらった。

(一一) 昭和六一年一〇月上旬ころ、劉は、原告に電話を掛け、「この間依頼している名簿の方は順調にいっていますか。できるだけ早く持ってきてくれませんか。」と言った。原告は、急きょ知人二〇名程度の名簿を作成し、同六二年一月劉の指示でコペンハーゲンにおいて同人に会った。原告は、その際、右知人の名前、住所、出身地、性格、趣味などを記載した赤色の手帳を劉に渡した。

劉は、その二、三日後、原告に右手帳を返したが、その際「住所は番地まできちんと書きなさい。生年月日が書いてなかったのがあったけど、全部書きなさい。家族も趣味ももっと詳しく書きなさい。」と注意をした。同時に、劉は、原告に対し、「このように名前を書いてくる人はお金に困っている人、仕事を辞めたいと思っている人、海外に行きたいと思っている人を書いて下さい」旨念を押した。そして、劉は、原告に一万アメリカドルを渡し、名簿作成を継続すること及び劉と同人の知人との電話の取次ぎをすることを依頼した。

(一二) 原告は昭和六二年二月下旬か三月上旬ころ帰国したが、同年四月ころ前記赤色の手帳を廃棄し、新たに青色の手帳に、調査した者の氏名、住所、出身地等の事項を記載する作業を継続した。

(一三) 前記(一一)記載の現金一万アメリカドル及び前記(一二)記載の青色の手帳は、昭和六三年五月二五日ころ、原告の逮捕に伴う捜索により原告方から発見され、捜査機関に押収された。

2  ところで、本件では、原告がヨーロッパで何回か会った劉が北朝鮮の工作員か否かが争われており、被告は、劉が、本名キム・ユ・チョル(以下「キム」という。)という北朝鮮工作員である旨主張する。

そこで、そもそもキムが実在するのか、劉とキムは同一人物かを検討するに、証拠(〈書証番号略〉、証人瀧澤裕昭)によれば、次の事実が認められる。

(一) 我が国の警察庁が、キムという人物を把握するに至ったのは西ヨーロッパのある国の治安機関(以下「A国治安機関」という。)から提供された情報による。それによると、一九八一年(昭和五六年)一一月二一日から一九八三年(昭和五八年)六月二六日までの間、コペンハーゲン市内又は「デンマーク空港」において、原告を含む日本人女性六名が北朝鮮情報機関員キムと接触の事実があるというものであり、右六名について、キムと接触した日が具体的に特定され、接触後キムと一緒にどこの国又は都市に向かって出国したかなどが報告されている。また、右情報によると、キムは、一九三八年四月一七日平壤生まれであり、身長一七〇センチくらい、やせ型で、眼鏡を掛けており、日本語を流暢に話すという特徴を有し、一九七八年一一月在デンマーク北朝鮮大使館勤務、一九八〇年秋在ベオグラード北朝鮮大使館勤務を経て、一九八一年から旧ユーゴスラビア在ザグレブ北朝鮮総領事館に副領事として勤務していた人物で、当時北朝鮮・朝鮮労働党連絡部の欧州地区担当幹部であった。

(二) 朝鮮労働党連絡部の任務は、海外における情報活動、秘密工作活動を行うとともに、大韓民国(以下「韓国」という。)に派遣する特殊工作員を養成・訓練して、同国内で非合法な地下工作を行うことにある。同連絡部の日本人・韓国人工作のうち、特に重要な任務は、韓国に合法的に渡航できる工作員を養成し、又はその工作員を指揮することであり、そのために、工作員が日本人に成り代わったり、日本人を同連絡部の手先にしたりすることが必要であり、このような目的に利用し得る日本人を獲得することは同連絡部の任務の一つであると考えられている。

(三) 前記のキム及び同人と原告を含む日本人女性六名との接触の事実に関する情報(以下「本件情報」という。)を提供したA国は、西ヨーロッパの中立国であり、韓国及び北朝鮮とも国交のある国である。また、治安機関とは、警察と同様の組織である。A国治安機関は、今までこの件以外にも我が国と情報交換を行っているが、その情報は他の外国の治安機関の情報に比べ信頼性が高いとみられている。しかも、A国治安機関は、不確実な情報についてはクレジットと称する信用性についての留保を付して情報の提供を行っているところ、本件情報については右の留保は付いていなかった。

(四)(1) 本件情報は、一九八四年(昭和五九年)及び一九八七年(昭和六二年)の二回にわたって我が国の警察庁に提供されたものであり、昭和六二年には警察庁の職員がA国治安機関に出向き、直接手渡しの方法により資料の提供を受けたものである。本件情報のうち原告に関するものは、キム及び女性が別々に写っている写真(女性が写っている写真は二枚。〈書証番号略〉)とともに、原告が一九八二年二月六日、コペンハーゲンでキムと接触し、一緒に東ベルリンからモスクワへ出国したこと、一九八三年六月二五日、原告がロンドンからコペンハーゲンに到着後、キムと接触し、翌日「キム夫妻」の名前で一緒にベオグラードへ出国したことを報告している。

(2) 原告は、取調べの過程で、右(1)のキムが写っている写真を含む一〇枚の顔写真を検察官から示され、この一〇枚の顔写真の中に原告が話している「劉」という者がいるかと尋ねられた際、右のキムの写っている写真一枚を選び出し、この写真の人物が自分が話してきた劉に間違いない旨供述した(〈書証番号略〉)。また、原告は、取調べの過程で司法警察員に対し、右(1)の二枚の写真に写っている女性は自分である旨供述している(〈書証番号略〉)。

さらに、警察庁科学警察研究所法医第一研究室技官宮坂祥夫による写真の人物の顔貌の形態解剖学的検査に基づく異同識別鑑定によれば、原告と右(1)の写真の女性とは同一人と推定して差し支えない旨の結果が出ているところ(〈書証番号略〉)、その検査の手法及び判定の過程に照らし、この鑑定意見は科学的合理性を有するものとして採用することができ、これを排斥すべき理由はない。

(3) A国治安機関が本件情報を得るに至ったのは、キムがザグレブの領事館に勤務していながら任国である旧ユーゴスラビアを離れて西ヨーロッパ各国に入国し、秘匿性の高い行動に及んでいたことによるものとみられる。

(五) 本件情報によりキムと接触していた事実が報告されている六名の女性のうち原告を含む五名については、北朝鮮の問題に関心を持ち、チュチェ思想の研究会や学習会、「キム・イルソン主席を讃える会」、「朝鮮文化研究会」に入るなどの活動の経歴がある。

また、原告以外の五名の女性に対しては、原告と同様の理由により、昭和六三年八月六日付けで一般旅券の返納命令に関する通知が官報に公告されたが、このうちK及びUの二名は、直ちに外国から外務大臣宛てに問い合わせの書簡(同月二九日付け)や審査請求書(同月二八日付け)を送付し、しかも、Kについては、右書簡に記載されている住所地がウィーンの北朝鮮大使館の住所と一致している(〈書証番号略〉)。

(六)(1) 原告は、昭和六〇年五月ヨーロッパから帰国後、多数の銀行や証券会社等において預貯金口座を開設し、そのうちの一部についてはキャッシュカードの交付を受けている。原告が口座を開設した銀行・証券会社等の名称及びその暗証番号は次のとおりである。

太陽神戸銀行(当時) 一一二七①

横浜銀行 〇一二九②

山一証券 〇五三一③

日興証券 一一〇六④

三菱銀行 八〇六三⑤

郵便局 一九九五⑥

野村証券 〇七一九⑦

駿河銀行 一一〇六④

協和銀行(当時) 〇五三一③

横須賀信用金庫 一一二七①

三浦信用金庫 八〇六三⑤

太陽神戸銀行(当時) 八〇六三⑤

三浦信用金庫 〇一二九②

(2) 右七種類の番号のうち、一一〇六(④)は原告の生年月日である昭和三〇年一一月六日からとったもので、〇七一九(⑦)は原告の実母の生年月日である同六年七月一九日からとったものである旨原告は供述している。

また、八〇六三(⑤)については、昭和六〇年五月二八日原告が佐藤恵子の名前でアパートの賃貸借を申し込んだ際、賃貸借入居申込書に本籍地として記載した大阪市天王寺〈番地略〉と類似している(なお、原告の本籍地は兵庫県西宮市〈番地略〉である。)。

(3) 残る番号のうち、一一二七(①)は、よど号ハイジャック事件の被疑者T(以下「T」という。)の本籍地(新潟県新発田市〈番地略〉)の地番と一致している。また、〇一二九(②)は、前記一一〇六や〇七一九の生年月日からの数字の取り方と、Tの生年月日の昭和一八年一月二九日の数字の並び方と極めて類似している(〈書証番号略〉)。

さらに、〇五三一(③)は、同じくよど号ハイジャック事件の被疑者S(以下「S」という。)の生年月日の昭和二八年五月三一日の数字の並び方と極めて類似している(〈書証番号略〉)。

また、原告方から押収されたメモに記載されていた「セイブマリオン〇三―九八五―一九二三」の音声伝言システム中の暗証番号〇一一二七八〇六三は、右①と⑤の数字の組み合わせである。

(七) 原告は、昭和六二年一一月初めころ、劉の知り合いを名乗る男性から劉に伝言してほしい旨電話が掛かり、当時大楠高校二年生である二名の氏名等が伝えられたので、これを書きとめ、翌日ころ劉から電話があったので、右高校生の名前などを劉に伝えた旨供述している。原告方で押収された黒色の手帳には、右にいう高校生であるH及びMの住所、氏名、電話番号、性格、所属クラブが記載されているところ、これらは昭和六三年五月に逮捕したS方から押収されたメモの記載と一致している。

(八) 本件情報の一部については、A国以外の外国の治安機関からの関連情報による裏付けがあり(〈書証番号略〉)、また、警察庁から情報提供を受けた後、キムなる人物の存在について外務省が在外公官を通じて情報の収集に努めた結果でも、これを否定する情報は全くなかった。

3(一) 前記2認定のとおり、原告及び原告とほぼ同時期に旅券返納命令を受けた五名の女性と北朝鮮に関連する人物との間には、一般人の場合では考えられないような強い結びつきが見られること、A国治安機関が在ザグレブ北朝鮮総領事館に勤務するキムの行動をマークする過程で、わずか二年足らずの間にヨーロッパの特定の市内又は空港において右六名の女性の全員と接触していた事実が把握されたこと、前記1認定の劉が原告に指示していた調査・物品購入活動は、原告が供述するような中国物産品を扱う商人としては単なる趣味や商業活動の範囲を超えたものであり、指示の際の注意事項等を併せ考えれば、劉の原告に対する調査活動の指示は、北朝鮮の工作員を日本や韓国に送り込むための情報収集、準備活動とみられること、その他前記1、2に認定の事実によれば、本件情報の中心人物である北朝鮮情報機関員たるキムは実在の人物であり、しかも、原告が捜査機関に供述した劉なる人物と右キムは同一人物であると認めることができる。

(二) キムが北朝鮮情報機関員であること及び同人と原告とのヨーロッパにおける接触の事実については、A国治安機関の本件情報に負うところが大きく、右情報の信用性は一つの問題である。しかし、証拠(〈書証番号略〉)によれば、一般に、外国の治安機関相互の情報交換は、複雑な利害のからむ外交問題に発展することを回避しつつ信頼性の高い情報を継続的に収集するため、互いに情報源を明らかにしない旨の了解の下に行われるものであり、本件で、A国がどの国を指すか明らかにできないのは右の事情によると認められるから、被告においてA国の国名を明らかにできないとしていることから直ちに本件情報が信用できないということにはならず、証拠として採用できないというものでもない。前記2に認定の本件情報の内容とその後の情報収集及び捜査によって客観的に明らかになった事実関係を総合すれば、本件情報は十分信用できるものというべきである。

(三)  原告は、劉から頼まれて調査活動に従事した旨の捜査段階の供述は、違法な別件逮捕中に捜査官から利益誘導や威迫を受けた結果作られたものであり、決して任意の供述ではなく、その内容もほとんどが捜査官の誘導に基づく虚偽のものである旨主張している。

しかし、証拠(〈書証番号略〉、原告本人)によれば、原告は、昭和六三年五月二五日の逮捕直後に本件訴訟の原告代理人でもある久連山弁護士を弁護人に選任し、合計七回接見をしていること、原告は、弁護士に対し、取調官から脅迫や不当な誘導を受けているなど訴えていないこと、原告は同年六月一五日釈放された後、谷口優子弁護士に対し、捜査段階で供述していたのとほぼ同旨の事実関係を供述していることが認められる。

さらに、供述の内容についても、それ自体詳細であり、劉から受けた注意事項等かなり細かな事項も含まれていて、これらがすべて誘導に基づくとはおよそ考えにくいこと、原告方から押収されたドル紙幣や手帳などその供述の裏付けとなる証拠が存在すること、証拠(〈書証番号略〉)によれば、原告は、供述したくない事項については、話したくない旨明確に述べており、昭和六三年五月二五日の取調べの際には、捜査官が調書の内容を読み聞かせたところ内容の訂正を申し立てていることからすれば、原告の捜査段階の供述の任意性、信用性は優に認められるというべきである。

原告の供述及び陳述書(〈書証番号略〉)の記載は、採用することができない。

4  以上の検討によれば、本件文章の内容は真実であると認められる。したがって、被告の抗弁は理由がある。

第四結論

よって、その余の点について判断するまでもなく、本件文章を記載した本件白書の発行、頒布が不法行為を構成することを前提とする原告の被告に対する本訴請求は、いずれも理由がない。

(裁判長裁判官石川善則 裁判官春日通良 裁判官和久田道雄)

別紙(一)謝罪広告

掲載条件

読売新聞

朝日新聞

毎日新聞

日本経済新聞

各全国版朝刊各版第一社会面記事下二段、横十センチメートル

お詫び

当庁編、平成元年版『警察白書』第7章「公安の維持」二八九ページ「北朝鮮工作員の指示の下に活動していた日本人女性の逮捕(横須賀事件)」と題した事例報告は、同女性が北朝鮮工作員の指示により、「指定された場所の撮影、知人の自衛隊員等についての人定メモの作成、日本海沿岸府県の地図の入手等」調査活動を行い報酬を得ていたなどという内容で、「北朝鮮工作員による巧妙な日本人女性獲得工作の実態」と記載しましたが、これらは事実に反し、同女性が、警察の治安維持活動の対象となる違法行為を行った者であるかの如くに記載したことは間違いでした。ここに、当庁は同白書部分の記載事実はなかったことを言明し、当時横須賀市在住の甲野花子様の名誉、信用を著しく毀損したことを認め、甲野様およびその関係者各位に多大なご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。

一九九一年 月 日

警察庁

当時長官 金澤昭雄

別紙(二)ないし(六)〈省略〉

別紙一

ウ 北朝鮮工作員の指示の下に活動していた日本人女性の逮捕(横須賀事件)

63年5月25日、神奈川県警察は、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員と接触し、その指示を受けて活動していた日本人女性A(32)を、有印私文書偽造、同行使で逮捕した。

Aは、ヨーロッパ旅行中に北朝鮮工作員と親密な関係となり、その指示を受けて我が国をはじめ東南アジア、ヨーロッパで調査活動に従事し、その報酬、資金として数百万円を渡されていた。特に、我が国については、指定された場所の撮影、知人の自衛隊員等についての人定メモの作成、日本海沿岸府県の地図の入手等の指示がなされていた。また、写真撮影の際にはマニアを装い自然に振る舞うこと、だれかに監視されていないか常に注意すること、任務に関するメモは必ず細かく破って捨てるか燃やすことなどの細かい指示を受けており、北朝鮮工作員による巧妙な日本人女性獲得工作の実態が明らかになった。

なお、同事件を契機に、Aと同様ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員と接触していた日本人女性5人が判明し、外務省は、Aを含む6人に対し、「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞(おそれ)があると認めるに足りる相当の理由がある者」と認定し、旅券返納命令を下した。

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